月の珊瑚2歌词
(三)
ディスレクシア、学習障害の一種。
知能水準は平均に達していながら
文字を正しく理解しない症状。
ディスレクシアにとって
文字は水面にこぼれた油のように映るという。
私の耳はそれに近い
生まれつき音の美しさが分からない。
音に頼る情報を
情報として理解できない。
私にとって世界は
テキストとテクスチャーで構成されるものだ。
誕生から永眠する時まで
会話とは無縁だった。
そんな人間が
こんなカタチで記録を残すのは不本意だが
仕方がない。
彼女は多くの事柄を貪欲に学んだが
読み書きだけは、最後まで修得しなかった。
私が生まれた時、既に西暦は失われていた。
人類は末期を通り越し
後は永眠するだけのターンに差し掛かっていた。
復興された第十二衛星都市が私の故郷だ。
人口一万人をかろうじて維持する
優れた文明圏と言えるだろう。
その年、第十二衛星都市での死亡数は1
誕生数は0だった。
かつてこの惑星では
一秒のうちに一人の命が失われ
三人の命が誕生していたと記録に残っている。
マイナスよりプラスの方がやや上回る
それが人間の、種としての優位性だった。
その優位性は、もはや見る影もない
反面、地上の環境問題は軒並み解決していた。
人類が解決したのではなく
この惑星が長い忍耐のすえ持ち直した結果だ。
太陽と水と空気は貴重なものになったが
依然として地に満ちている。
かつてのような繁栄は望むべくもないが
繁殖するだけなら何の問題もない。
にもかかわらず人口グラフが右肩下がりなのは
ひとえに、人間という種から意欲が失われたからだ
やる気と言ってもいい。
進化の道を突き進むには燃料が必要で
人間はその燃料を使い切った。
生命の例に漏れず
我々とて自己保存を基本としていたが。
その基本装置を動かす為に必要なものがあるとは
誰も気付かなかったのだ。
そういった熱量はひとりひとりのものではなく
種全体で消費するものだった。
はじめから総量が決まっていたのだ
当然だろう。
形而上のものであれ
この宇宙に無限の資源など存在しない。
我々の宇宙は閉じており
最後には無に帰る事で
帳尻を合わせるのだから。
それでも種を存続させよ
うと努力する人々がいた。
私はその一員として
都市の住民権を与えられた。
復興は大きく
蘇生と維持のセクションに分けられる。
蘇生セクションは感受性や文明の復活を。
維持セクションは文字通り
失われていくものを押しとどめる。
それは技術の話でもあり
命の話でもある。
自殺を未然に防ぐのが
維持セクションの主務だった。
私は維持セクションに回された
人類を維持する為に娯楽は必要だ。
ぶらさげられた人参としてではなく
文明の水準向上に
これほど有効な手段もない。
通信、ネットワークは
人々が生きる上でもっとも重要で
かつ基本的な“娯楽”だった。
私はその管理と
発展を任された最後の一人だ。
私の生まれた年代は
遺伝子操作による優秀種
デザインベビーが試された年代でもある。
成功例はゼロ。
彼らは生まれた直後
自ら呼吸を止めて永眠した。
もういい
そこまでして続けたくない
という人類の総意だと
ある科学者は嘆いたという。
試みは次の段階に入った
意識の働きで心臓が止まるのなら
本人の意思では止まらない心臓を作ればいい。
本当の意味で機械的な人間をデザインすれば
彼らは生きることを余儀なくされる。
その試みは何件か成功した
多少の不具合……五感
人としての感性に
何らかの障害を引き起こしたが
生物学的には間違いなく人間だった。
そうであると私は聞かされている。
ともあれ
飽くなき探求心
不屈の精神の賜だ。
人類がこの惑星で
もっとも栄えた理由の一つを。
蘇生セクションのスタッフは
まだ維持していた。
私は彼らのようにはなれなかった。
音を、会話を知らない私にとって
世界はもっとシンプルであってほしかった。
情報の海を広げる作業中
宇宙開拓の名残を見付けた。
帰ることを考えなければ
月への航路は幾つか残されていた。
私が月を目指したのは
それだけの理由である。
ロケットを修復し
造りかえ
自分の体も少しずつ
宇宙飛行に堪えられるよう調整した。
復興を掲げながらも
病的なまでに他人に無関心な都市の人々は
私の作業に注意を払わなかった。
役割さえこなしていれば
誰も私生活には干渉しないのだ。
私は二度とは脱げない宇宙服に着替え
ロケットに乗る時でさえ
戸惑いは浮かばなかった。
故郷に戻れない事への恐怖はない
宙に昇ってからの不安もない。
月面都市に生命反応はないが
施設はいまだ稼働している。
最低限の生活水準は保証されており
また、見積もりが甘ければ甘いで
愚か者が一人死ぬだけである。
ロケットは地球の表面を二回ほど回ってから
ゆるやかに月の重力圏に入った。
その過程で
かつて暮らしていた世界を見下ろす事になった。
胸に飛来したものは強烈な罪の所在だ
私は人間を憎んでいる訳ではない
ただ、彼らと関わりを持ちたくなかっただけだ。
人々の希望になるよう願われて生を受けたが
私は、自分の事だけで精一杯だった。
私にはネットワークと
自分と、狭い部屋が一つあるだけでいい。
音のない世界で
情報を目で追っていれば幸福だった。
月でなら誰に邪魔をされることなく
ひとりで引きこもっていられるだろう。
私は何を、誰を殺した訳でもない。
ただ自分と、人間を見捨てただけ。
何もかもが面倒になって
相互補助の繫がりを
物理的に断ったのだ。
月面への到達には
多少の手間が必要だった。
地球からの観測で判明していた事だが
月の大部分は氷の膜で覆われていた。
月面に造られた七つの都市を守るようにできた
青い天蓋だ。
地上から飛び立つ時
もっとも手間を取らされたのが
この侵入経路の算出である。
氷の傘の隙間にすべりこむ突入経路の計算に
一月を費やした。
個人的な所感だが
計算にとり組めばとり組むほど
この氷の用途は測れなかった。
いかなる意図で造られたものか
責任者がいるのなら問いつめたいと
不満をこぼしたほどだ。
もっとも
その不満を聞き届ける者は
もういない。
月の表面に降り立ち
都市部に入る。
生命反応はない
七つの都市は
そのすべてが墓標だった。
電気の明かりだけが
灰色のモニュメントにまたたいている。
上空を見上げると
厚い氷壁の中で太陽光がゆらめいている。
ヒトのいない建物は岩礁のように
仄暗いブルーに沈みこんでいる。
これでは月面というより海底だ。
ふと、宇宙服に包まれた手を見下ろした。
月面での生活用にふくれあがったソレは
ブリキの潜水服そのものだ。
私は昇ってきたつもりで
月の底に落ちてきたらしい。
ともあれ、まずは資源の確保が重要だ。
月の第五都市マトリを拠点にして
月の裏側に向かった。
七つの都市に水素を
提供する炉心がある為である。
しかし
私はそこで
一度だけ自分の正気を疑った。
地上からでは決して
観測できない月の裏側は
灰色の森だった。
石灰で出来た樹木
ソラを覆う分厚い氷。
その中心
主要元素である
水素、炭素、酸素、窒素を提供する炉心に
まさかこんなモノがいようとは。
唐突にひとつの童話を思い出す
最後に涙になって溶けるのは
アンデルセンの人魚姫だったか。
それは限りなく人間に近い造形をしていた。
青い光に照らされた生身の少女
亜麻色に輝く髪と
滑らかな石質の肌。
白い、一点の汚れもない雪の花を連想させる。
身じろぎもせず
穏やかな瞳だけが
眩しそうに私を見つめていた。
少女は美しく、また、ヒトではなかった。
どのような繊維で造られているのか
少女は古い着物を着せられていた。
そう、着せられている
決して自ら着飾ったものではないだろう。
少女は湖底に座り込み
両手を左右に
ゆったりと地面に下ろしていた。
その先端は存在しない。
少女の両手は月の大地に融け
直結している。
彼女の腕は
肘のあたりから黒く変色し。
鉱物の鋭さをもって
大地と一体化しているのだ。
さながら
地面から伸びた柱のようだ。
その腕で服を着る事はできない。
これはのちに知った事だが
彼女の研究者の一人が
むき出しでは可哀想だと
ドレスを着せたらしい。
コレを人間扱いする方が
倫理に反すると
仲間からは軽蔑されていたようだが
私も同じ意見だ。
ソレは囚われているとも
守られているとも取れた。
醜いものと
美しいものが混ざり合った姿。
少女は私と同じく
突然の来訪者を警戒しているようだった。
私の第一印象は言うまでもなく
「待ってくれ
話が違う
なんだって月面に宇宙人がいる?」
月に来れば
ひとりきりになれると思ったのに!
訂正すると
少女は宇宙人ではなく
れっきとした地球圏の生命だった。
月面都市に残った資料によると
彼女は星を効率よく運営する為の
入力装置だった。
星を一つの生命として捉え
その魂を摘出し。
珪素生命として安定させたものだという
魂と書かれているが、要するに脳だろう。
惑星には肉体と心臓にあたる部位はあるが
脳にあたる器官が存在しない。
月の技術者たちは
脳を人工的に造る事で。
この星を自在に運行する
命令体を作り上げたのだ。
そのような大それた生き物に
近づくのは抵抗があったが。
生存に必要な物資は
彼女の周囲から摘出される。
水素も電源も
彼女が居る森に
直接取りに行かねばならない。
自然、どうしても目が合ってしまう。
月に水が湧くのはここだけだ。
十二時間ごとに補充しに行き
一時間ばかり
少女の傍で森を眺める事になる。
少女は一歩も動かず
また
こちらとコミュニケーションを
図るような事はなかった。
珪素生命
――石で出来ている彼女は。
我々からすれば
タイムスケールの違う
永劫不滅の生命だ。
私のように不完全な命ではない。
百十二回目の補充。
単純な労働だが苦痛はない。
どうにも
私はこの森が気に入っているらしい。
地球の森は生命力が強すぎて
私には毒がありすぎた。
この森は清潔だ
何より音がない。
この近くに施設があったなら
迷わず移住していただろうに。
タンクを地表に打ち込んで
必要なだけの元素を摘出する。
その間
私は少女の傍に座って
情報を提供する。
少女が望んだ訳でもないし
そもそも私たちに意思の疎通はない。
これは私が自発的に行う等価交換だ。
私が彼女に返せるものは情報だけなので
物語を聞かせる事にした。
完全な自己満足である。
「……しかし、なんだな。
人のカタチをしているからといって
人間の文化を押しつけるのは
傲慢ではないだろうか」
待ち時間の手持ち無沙汰から
私は少女のドレスに手をかけた。
姿が同じというだけで
人間の都合を押しつけるのは
どうかと思ったのだ。
彼女も迷惑だろうと
ドレスを脱がしにかかったところ。
気が付くと
腹部に強烈な衝撃が走り抜けた。
動かないはずの少女の腕が
滑らかに稼働した歴史的瞬間だった。
三キロメートル近く大気を滑っただろうか
マスドライバーもかくやといったところ。
岩山にひっかからなかったら
間違いなく虚空に飛び出していた。
人間ではない知的生命体は
二種類に分けられる。
エイリアンとインベイダーだ。
彼女が宇宙人ではない事は判明していたが
侵略者でもない事を祈るしかない。
「昨日は申し訳ない事をしたが
そちらも反省してほしい。
ここが地上なら
今ごろ君は檻の中だ。
君には少し
人間がどれほど脃いかを学んでほしいと思う」
四十八時間後。
私は新しい作業用車両を調達して
少女と対峙した。
正直危険に満ちていたが
十二時間ごとに命のやりとりをするのは遠慮したい。
交渉による平和的な関係を築くべきだ。
会話はできずとも
意向を伝える程度はできるだろう
と考えての事である。
月の住人たちが
少女を通じて星を運営していた以上
彼女には外部入力機能があるはずだからだ。
手振りで
先ほどの行為はもうしない、と示すと。
彼女は一時間ほどかけて首を縦に動かし
こちらの謝罪を受け入れた。
かくして
インベイダー危機は去った。
少女とはこれからも
十二時間ごとに顔を合わせる事になるが
人間ではないので問題はない。
「ヒトが死を怖がるのは
死にたくないからじゃない。
増えなくてはいけないから
その前に死ぬことを怖がるんだ」
月の森で
私は一方的に話を聞かせた。
人間がなぜ死を禁忌するのか
生命は自己保存を原則とする。
我々の体の設計図である遺伝子は核酸
即ちDNAだ。
紐状の二重螺旋で知られるこの暗号は
完全な対構造になっている。
開始と終点を描いた紐を
上下逆に合わせたものだ。
これらは一本で生命の設計を
もう一本がその複製を担っている。
どちらかが失われても
残ったもう一本が存在を受け継ぎ
生命活動を続けていく在り方だ。
我々は根本からして
“自分を残す”ことを最優先に設計されている。
「増えること。
子供を作る
ということは自分の遺伝子の引き継ぎ
永続を意味するからね。
本来
生き物は子供を作った段階で用済みになる。
より優れた自分の複製が生まれた以上
古い遺伝子を生かすのは資源の無駄だ」
自分にあった異性を選ぶ
より美しい配偶者を求めるのは
心による働きではない。
自分の複製に
より優れた遺伝子を配合するための本能だ。
我々は遺伝子の運び屋にすぎない。
人間に感情があるのは
それがもっとも効率がよく
また長続きするシステムだからだ。
かつて五十億もの繁栄を遂げた鳥がいた
高等生物では敵いようのない数。
自然界において
人間サイズの生き物は
そこまでの繁殖はできない。
しかし、結果はこれを上回った。
五十億の鳥を食料として消費したばかりか
最後には彼等の数すら上回ったのだ。
感情、知性は
人生を豊かにする為のものではない。
種が覇権を握る為の
もっとも強い武器に他ならない。
感情のない機械ではこうはいかない
機械は効率だけを良しとする。
最適な状態に行き着けば
そこで進化を止めてしまうだろう。
「生命は増え続けなければならない。
それを済ますまで
死が恐ろしくて仕方がない。
しかし子供さえ育ててしまえば
死の幻想から多少は解放される。
自分の役割を終えたからね
あとは好き勝手に生きればいい。
種の存続により尽くすのも
利益に走るのも、個人の自由だ」
もっとも
地上の人々はその例には当てはまらない。
人類は心が強くなりすぎたのだ。
“あがり”を宣言され
ほとんどの未来を手に入れた彼らは
種の存続に縛られなくなった。
自己保存も自己改革も他人事。
彼らにとって繁殖は
本能や義務ではなく
すでに趣味の領域に変化している。
「それでもまだ
趣味であるうちは救いはある。
それさえなくしてしまったら
私たちは生命とは呼べなくなる」
少女はあいかわらずピクリとも動かない
こちらの話が伝わっているかはどうでもいい。
補充した物資分のお代は話したので
早々に森を後にする。
月の森は変わらずに無音で、清潔だ。
つい足を止めて見入ってしまい
振り返ると
少女がかすかに手をあげていた。
目の前にいる羽虫を摑むような動作だった
後に、あれは三十分ほどのタイムラグによる動作と判明したが。
この時の私には
彼女の思惑は測れなかった。
「無駄な消費はよくないよ
このタンク一杯分だけでいいんだ。
無制限に使っているけど
底をつく可能性だってある。
星が枯渇したら
君だって共倒れになるんじゃないか?」
百八十回目の補充。
ここのところ元素の生成量が増しているので
少女にそれとなく注意した。
驚いたのは
そのおり
少女が残念そうに目を伏せた事だ。
こちらの言葉が伝わっている
なにより、意思を伝える術を学習している。
彼女は私の話からは何も学ばなかったが
独自に、私を観察する事で
彼女なりの成長を遂げているらしい。
その時は驚きばかりで
なぜ、という疑問は浮かばなかった。
「手の次は足ときた
自立してもいいことはないと思うけど」
二百四十回目の補充の頃
少女は立ち上がれるようになった。
地表と一体化していた手足は
これで本当に人間と同じものになった。
まだ立ち上がる事しかできないが
あの様子では歩きだす日も近いだろう。
私にとっては小さなニュースだ。
それより
来る時に見かけた
樹木の破損の方が気にかかる。
この森はお気に入りなのだ。
ところどころ虫食いでは
精神衛生上よろしくない。
樹木の補修に没頭する。
振り返ると
少女は満足げに笑っていた。
我が事のように喜んでいるようだった。
森の手入れが
スケジュールに組みこまれた。
「不用意に近寄らないように。
代えの宇宙服はないんだ
壊されたら死ぬしかない。
ああ、また転んだ。
ヒトのように歩きたいのなら
膝関節を作りなさい」
彼女は人間と違い
内部に骨格というものがない。
骨で器官を覆っている
我々とは内と外が逆なのだ。
そう言う私も
今では体の外側を宇宙服で覆っているので
彼女と同じような在り方だ。
助言をしながら
私は彼女に接触を禁じた。
安全性の問題だが
あの指に触れられたくはなかったのだ。
歩行するようになって
ドレスは本来の役割を果たすようになった。
石灰の樹木の合間をすり抜ける姿は
まるで
“これで、ヒトのように見えるでしょうか?”
無音の筈の森に、雑音が響いた。
なんだろう
まさか地上からの通信でもあるまい。
宇宙服の故障だ
都市に戻ったらチェックしなければ。
少女はまだ、しつこく木々と戯れている。
うまく歩けた感想を求められているのだな
と私は読み取った。
「そうだな。
どちらかというと
君の体は珊瑚のようだ」
どうでもいい独り言に
少女は跳ねるようにドレスを翻した。
地球時間にしておよそ六ヵ月
私は彼女と過ごした。
ここのところ
元素の生成率が低下している。
私ひとりが生きていくには十分だが
少女の負担になると思い
末端の都市から電源を落とす事にした。
ネットワークはとっくに断っている
都市の効率化ができたら再開すればいい。
食料も熱量も
余分な機能をカットしていけば
タンク一杯分は必要ない。
コップ一杯分で
十二時間活動できる。
月の森も
その大半が砂に還っている。
この森が少女の生存可能域なのだろう。
森の衰退と共に
彼女の活力は失われていくようだった。
“ごめんなさい。
最近はうまく星を動かせなくて”
少女が口を動かす
真空に伝わる波。
宇宙服の故障ではない
彼女は声帯まで獲得していた。
私には分からない
なぜ背伸びをする
と問いただすと。
“貴方を知りたいのです。
貴方に触れたいのです”
少女はすがるような目をして
声をあげた。
録音したが
私には解読できない。
少女の声はどの言語にも該当しない。
記録した音をテキストに置き換えても
そこには文字の羅列があるだけだ。
私にとって
音による言葉は
どれもが異国の唄と同じだった。
「君は成長を続けているな。
前にも話したけれど
自己保存と改革は生命の義務であり証だ。
しかし、君の進化はいい方向には進んでいない
なんだってそんな、不便な体を」
“そんな小難しいコトはどうでもいいのです
ただ貴方と話したいだけなのです”
少女は胸に手を当ててこちらを睨む。
まるで、自分の体はここにある
と言いたげな視線だった。
この時の私の心境は
今でも解析できない。
背中から切りつけられたような冷えた痛みと
心臓をじわりと握りしめられたような
小さな熱。
星を見下ろしていた時に感じた
不可思議な心の動きと同じだった。
少女のそれは
心と呼ばれる生体機能だ。
彼女には感情が生まれていた。
もうとっくに気付いていた
目を背けていただけだ。
この生命は環境に合わせて成長するのではなく
自身の願いを軸に成長する道を選んだのだと。
「そうか。君は、ヒトのカタチになりたいんだな」
彼女は力強く頷いた。
伝え合う事のできない我々にとって
たった一度きりの相互理解だったと思う。
彼女が私に危害を加えなかった理由は
私の姿を参考にしようと思ったからだ。
彼女が私に笑いかけるのは
私に向けられていた好意は
しかし、愛情によるものではない。
単に、この少女が他の人間を知らないだけだ。
時間は過ぎていく
彼女の変異はもう止めようがない。
少女は炭素生命へと変わろうとしている。
その先にあるものは不可逆の
種としての脆弱化だ。
月の資源も失われつつある。
彼女が星の頭脳体としての機能を失う事で
月は死の世界に戻ろうとしている。
ハロー、キャプテン?アームストロング。
人類で初めて月に行った彼が降りる前の
人間が住むべきではない、正しい姿に。
少女は死に向かって転がり始めた。
彼女がヒトに近づけば近づくほど
星は彼女を見放すのだ。
彼女がヒトに焦がれれば焦がれるほど
私は熱を失うのだ。
……ああ、それでも。
あの美しい石が生命である事を望むのなら
それを叶えてやらなければ。
ロケットの修理に着手する。
今のうちに
できるだけの資源を確保しておく。
七つの月面都市は
そのすべてが海の藻屑となるだろう。
私は自分にできる事をする。
もちろん自己保存が最優先だ。
そこを間違っては
教授したものとして
彼女に合わせる顔がない。
少女は日の八割を睡眠に費やしていた
眠る少女を抱きかかえる。
あれほど触れる事を禁じていたが
やはり、宇宙服越しでは何の感触もない。
だから、この数値だけを覚えていよう。
無重力の海では、数値だけが確かな記録だ。
森から都市に連れ出したところで
少女は目を覚ました。
意思は通じずとも
何をしようとしているかは理解できるのだろう。
少女は抵抗したが
もう以前ほどの力はない。
少女はしつこく暴れた後
睡眠に戻った。
一人乗りのロケットに彼女を寝かせる。
なぜか、五分で済むことに
何倍もの時間を要した。
安全性は確保したが
後で恨まれるだろう。
なにしろ空中分解を前提にしたアプローチだ。
成層圏にさえ入ればいい
あとは脱出ポッドで海に落とす。
弱っているとはいえ
彼女はいまだ星の分身だ。
その体、外殻は即座に環境に適応する。
多少は苦痛だろうが
そこは大目に見てほしい。
さて、発射まであと二分程度。
月に残った資源の八割を消費する
一大プロジェクトだ。
もともと彼女のものなので
惜しいという気持ちもない。
センサーが波を拾う。
ロケットの中で
壁を叩く音がする。
覗き窓には
もうくすんでしまった
亜麻色の髪が見えた。
やる事もないので
いつも通り
私は彼女に話しかける。
「落ち着いて
君に、私はもう必要ない。
その心は人恋しいだけなのです
ですから、あの星に落ちなさい
あそこには君の望む全てがある」
“違うのです
私は人間に恋をしたのではありません
貴方に恋をしたのです”
「気遣いはいらない。
これから僕は
かつての君と似たようなものになる。
資源が途絶える以上
人間としてはやっていけないからね。
もともと
そういう風になる予定だったんだ、僕は。
だから
以前までの君と同じく
寂しくはなくなるよ」
“それも違うのです
それではいずれ
貴方の方が人恋しくなる”
唄は、私には分からない。
それでも不思議と
不快ではない波だった。
壁を叩く音は強くなる一方だ。
まさか突き破ってこないだろうな
と思って、私はつい笑ってしまった。
私は計画の中止を懸念したのではなく
そんな事をしでかした場合の
彼女の健康を案じたのだ。
普段の私からは考えられない行為
いや、それこそ間違いだ。
この星にきてからずっと
自分はあの少女の為に活動してきた
あの少女を想わない日はなかった。
だから別に
今の心の働きは珍しい事でもない。
自分がそうでありたいと願った
この星で繰り返してきた
忘れがたい日常だ。
「……ああ。
以前、生命の定義の話をしたね。
増えることを放棄したものは
生命ではないと
その通りだ。
君が生命になるというのなら
子孫を残さなければいけない」
“待ってください。
せめて最後に
一度だけでも
貴方と話がしたいのです”
この少女を地球に落とす判断は悪だ
人類にとどめをさす行為かもしれない。
が、もともと私の人類愛は故障している。
だからこそ、こんな世界にやってきた
だからこそ、こうやって失う時にしか
心の所在に気付かなかった。
罰のように思い出す
私はそういう人間だったのだと。
「人間がイヤで
何もかもを見限って
月に昇ってきたのです。
そんな私が
人を愛する訳にはいきません」
多くの人々と同じ
弱く、身勝手な人でなし。
そんな機械に
他人を思いやる機能はないとしても
「――でも、君に恋をした」
幸福の意義など考えずに
貴方には穏やかであってほしいと
身勝手にも願ったのだ。
目を覆う光と熱
ロケットは尾を引いて
暗い星に落ちていく。
舟は虚空に。
私はそれを
レンズ越しに眺めている。
星が去っていく
君が去っていく。
私は今
かつてないほど人間的だ。
そうか。
恋を知る為に
私は月に昇ったらしい。
(四)
今年の寿命も数えるほど
十二回目の満月の夜。
あと十日足らずで今年は用済みで
また、あてのない一年をはじめていく。
わたしは高台から
三日月に灯る海岸線を眺めている。
今夜は一段と明るい海
吹く風は温かくも冷たくもない。
冬という季節は
この島には無縁のモノなのだ。
「空に水、水に空。
月の空には砕け散った海がある」
一説によると
この島に緑が蘇ったのは
島の近くに隕石が落下してからだという。
その後
月の珊瑚と呼ばれる
新しい海洋世界ができあがった。
ちなみに最初のおばあちゃんは
亡くなる間際
海に入ったまま戻ってこなかった。
月のいちばん見える夜
珊瑚が光るようになったのは
それ以来という話。
「星はまたたく
海はさざめく
人恋しくて珊瑚は謳う。
わたしたちは海月みたいに
ふわりふわりとその日ぐらし」
「おや。今夜はまた、一段と元気そうです」
ブリキの彼は例の小舟と共に現れた。
かすかな光を撒いて飛ぶ姿は
ちょっとだけ流星のよう。
わたしが元気なのは
月の満ち欠けの影響だろう。
ちゃんとご飯も食べているし
気持ちの問題もあって
今夜は特に調子が良い。
反面、彼はやや歯切れが悪い
訊ねてみると
そろそろ食料が切れるのだという。
「はいこれ。わたしの本、受け取って。
その代わり、あの貝殻はいただくわ」
「それは良かった。
最後にいい取引ができました」
舟の甲板がお鍋のフタみたいに開く
彼は自分より大きな本を抱えて
ちまちまと中に入っていく。
わたしはその隙に
ちょっとだけ覗き見る。
中は別世界に繫がっていた。
わたしの部屋より広そうな空洞に
一面の金銀財宝。
その真ん中に
彼は本をちょんと置いた。
少しだけ恥ずかしく
少しだけ誇らしい。
「最後?貴方、もう島にはやってこないの?」
「島というより
こちらに渡ってくる事自体が難しいのです。
こう見えて、だいぶん無理をしていまして
地球の重力は私には重荷なのです。
この機体も軽量化したものですし」
わたしは息を吞んだ。
死を迎える今年のように
彼もまた
回顧録に仕舞われる事なく去っていく。
別段、嘆くこともない。
いまの人類にとって一期一会はスタンダード
わたしだって情の薄いと評判の一姫さまだ。
そんなコトで躍起になって
引き留めたりこだわったりするのは
自分らしく――いや。
そんなところまで
先人の轍を踏んでどうする。
カタコトでも
わたしたちは話し合うコトができるのだ。
「相談事があるの
意見を聞かせてくれないかしら」
挑むような気持ちで言うと
彼は真面目に向き合ってくれた。
といっても
相談事なんて一つもない。
あれこれ考えたあげく
求婚について相談した。
島のしきたり
本土からやってくる殿方
との御簾越しの逢瀬。
常識はずれの交換条件を突きつけるコトを
どう思うか。
彼は小さな両手を組んで
なるほど、と納得声。
「貴方は誠実なのです
そういうヒトを知っています。
確かな証がないと
ヒトを思いやるコト
も欺瞞だと感じてしまう。
それは貴方が
自分より相手の人生を
よく考えている結果でしょう。
貴方の愛は
とても人間的なのですね」
月が眩しい。
わたしは何分もかけて
目の前にいる鳥を捕まえるような
羽虫を摑むような動作で
手を持ち上げかけて、押し止めた。
「そろそろ時間です
この周期を逃すと帰れなくなる。
読み書きは文化の基本なので
できるだけ長く覚えておいてください」
「そうね。次はもっとうまくなっているわ」
「次?」
「ええ。もう一冊書く予定ができてしまったから
さっきの本に新解釈をまぜたものだけど」
本当のことだ
あの貝殻の声を聞いた以上
新しい物語を残さないと。
「魅力的な案件だ
商売上手ですね。
ちなみに
代金はどれほどでしょう」
「月のサカナを用意できる?」
誰もが逃げだす無理難題。
その困難さを空想ではなく
現実として知っている彼は。
「サカナというのは
昔の海にいた生命ですね。
ふむ、月に海を作るのはたいへんそうだ。
私には荷が重いですが
それで貴方と取引ができるのなら
損ではないと判断しました」
甲板から、にょっきりと舵が伸びる
彼は舵をにぎって、西の空に船首を返す。
「そうだ。珊瑚の真相は分かりましたか?」
「ちっとも。
でも、おばあちゃんの願いは叶ったみたい」
その話については、新しい本の中で。
「良かった。それを楽しみに、難題を解くとしましょう」
それでは、と残して、小舟は虚空へと飛んでいった。
明日の夜には十六夜の月を横切って
遠い空に落ちていくのだろう。
ふと、美しい声を聞いた
貝殻にあった唄が記憶と共に蘇る。
あれから何百年
彼と彼女は永遠の没交渉。
月に咲いた花は地上に落ちて
平凡なモノになったけれど
多くの種を残した。
彼の教えを叶えるように。
愛は趣味だと彼は言ったけれど
本能より優れた趣味もあるらしい。
だからこそ人々は
今まもしつこく生きている。
「ああ――」
珊瑚が光る理由なんて
それだけのコトに違いない。
最後まで分かり合えることは
意思を伝え合うことはなかった。
一方通行の恋路
ひとりよがりの決断。
でも、互いの幸福だけを祈っていた。
それで残るものがあるコトを
彼と彼女は信じていなかっただろうけど。
「なんて、幸せな人たちだろう」
彼女の声を口ずさむ
懐かしい歌を思い出す
触れあえずとも命は遠いそらの彼方に。
光る海、謳う珊瑚。
――今も、貴方に恋をしている。