[00:00.68]幼い日の記憶 [00:01.08]子供の頃から、兄は学力優秀でスポーツ万能、性格が温厚で、誰からも好かれ、親にも将来を期待された。 [00:15.25]まさに、非の打ち所のない人間のように思われていた。 [00:20.85]それに比べ僕は、典型的な駄目な人間だった。 [00:29.06]勉強を嫌いで、学校にも碌に行かず、部屋に引きこもることが多い子供だった。 [00:36.75]それは、大人になった今も変っていないことに気づかされたのが、今回の事件だった。 [00:47.16]幼い頃は仲のいい兄弟だった。 [00:53.44]5つ年上の兄は、とても優しく、そして、本当に僕を可愛がってくれた。 [01:02.17]幼稚園から小学校にかけては、いつも兄がそばにいて、遊んでくれた記憶がある。 [01:10.95]放課後は、日が暮れるまで、学校のグランドや近くの公園で遊んだ。 [01:18.76]ブランクを押してくれる兄、 [01:21.99]滑り台の上で躊躇する僕に、下から「さ、おいて!」と、両手を広げて、見守ってくれる兄、 [01:32.86]鉄棒で下が上がりのできない僕に、一生懸命教えてくれる兄。 [01:40.97]日曜日には必ずと言っていい出かけだ。 [01:47.47]大概は、探検と称する遠出か、近くの沼でザリガニを釣って遊んだ。 [01:55.91]2人で、映画も見に行った。 [01:59.02]特に、怪獣物が、僕はお気に入りだった。 [02:03.76]兄が、他に見たい映画があっても、何を見るかはいつも僕の好きにさせてくれた。 [02:13.56]そして、遊び疲れて帰る僕たちを、いつも、笑顔の母が迎えてくれた。 [02:29.38]いつだったか、兄と2人で草むらを歩いていると、いきなり、5、6匹な野犬に囲まれてしまったことがある。 [02:40.07]僕が小学校に入学したばかりで、兄が六年生のときだったと思う。 [02:46.97]犬がすごい唸り声を上げて、まるで、狂犬のようだった。 [02:54.39]思わず、兄の背中にしがみついて、泣き出しそうになったら、兄が後ろ手に、僕を抱きしめていた。 [03:05.88]「兄ちゃん、怖いよ」と叫んだら、兄は「声を出さないて」と、小さく、強い口調で言った。 [03:18.55]兄は左手で、僕の手を強く握り、背中に庇いながらゆっくりと歩き出した。 [03:27.29]兄は右手で、拳を握り、野犬の攻撃に備えた。 [03:34.06]その手は、僅かに震えていたように思う。 [03:37.83]兄は野犬と目に合わさないように、前方をきっと睨んだまま、ゆっくりと、時間をかけて前進した。 [03:49.87]その僕たちに向かって、野犬が吠えかける。 [03:55.10]僕は、兄の手をきゅっと握り、背中に貼り付けるようにして、歩調を合わせた。 [04:03.98]まるで、石にでもなったからような感覚で、ゆっくり、前に向かって移動していく。 [04:12.31]それは、気が遠くなるほど長い時間で、僕は何度も気を失いかけた。 [04:21.78]そのたびに、兄が強く僕の手を握り、僕は、我に帰った。 [04:29.89]「とにかく相手を刺激しない」それが、兄のとっさの判断だったように思う。 [04:38.23]そしてその作戦が見事に成功し、野犬は、僕たちを追っては来なかった。 [04:45.52]それでも、野犬の姿が見えなくなるまで、僕たちはゆっくり移動した。 [04:53.90]だいぶきたところで、もう大丈夫だと判断した兄が、「ふー」と言って、草むらに倒れ込むように寝初めった。 [05:05.77]僕も一気に緊張が解け、兄に覆いかぶさって、「兄ちゃん、兄ちゃん」と声を上げて泣きじゃくった。 [05:17.35]そんな僕を、兄は抱きしめながら、「もう大丈夫だ、本当に怖かったな」と言って、今度は、声に出して笑った。 [05:31.05]僕を安心させたがっただろう。 [05:34.79]兄は僕の頭を撫でながら、ずっと笑っていた。 [05:40.76]この時は、そんな兄が大好きだった。 [05:44.27]